これを読めば「探偵青猫」の世界がちょびっと判るかも知れない?
大黒屋があなたに送る、過ぎ去りし日の思い出(笑)
カフェが初めて出来、バアーが初めて開かれたのはこの頃。
メイゾン鴻の巣は文士の巣窟で(笑)カフェ・プランタン
は画家と文士のあつまりが主でありました。
こうして、日本青年は、初めて洋風の飲食店の享楽(?)を
覚えたのでしょうか?(笑)
鴻の巣は当時、高村光太郎・北原白秋等が出入りし「スバル」
「白樺」などの新しい文学者の寄り合いの場として知られて
いました。
メイゾン・鴻の巣
←明治の末にでき、はじめ鎧橋のたもと小網町河岸にあった
が1920年(大正9年)京橋に移った。
カフェ・プランタン
明治44年 京橋日吉町に誕生。
壁の落書きは有名であった。
画家の松山省三の経営。
ここには若き日の永井荷風や小山内薫が
集っていたそうな・・・。
この時期の詩歌にカフェやバアーが珍し
げに度々登場するのも頷けることでしょ
う(笑)。
←カフェ・プランタンの
女給さん(大正10年頃)
青猫恭二郎様が物憂げに
珈琲を飲んでいる姿を、
思わず想像させる趣のあ
る空間・・・・。
こんな場所で、可愛い女
給さんが運んでくれた珈
琲はまた格段の味がした
のでしょうね(笑)
ここに集い来る若者は夜毎、刺激しあい、熱狂しあい当時の鬱屈とした社会の中で、反逆して、
デカダンスにはしり(笑)、そこに青春の瑞々しさを重ねて、浪漫主義文学を形作って行った
のかもしれませんね?(うっとり)
一回十五銭のチケット制で、ダンサーも大正期には舞踏手と呼ばれていました。
服装も昭和六年頃までは殆どが和服で、昭和八年頃になって
やっとドレスと半々、昭和十年頃になって全員ドレスになっ
たそうです。ダンサーの数はホールによって差があるものの
少ないところで六十人多い所で百〜二百人の所もあったよう
です。当時ダンスは一般の理解も薄く軽佻浮薄なものという
観念が定着していたので規制も厳しくダンス場以外で客と一
緒に歩くと警官に尋問されたりしたんですって!
ラストワンのスピーカーが流れると、ダンサーを恋人に見立て
てラストバンドで必ず演る「グッドナイ、スイートハート」を
踊り、いろいろな思いに酔いつつ、別れのロマンチックな気分
に浸っていたのでしょうか?
昭和の開戦まで六十ほど有ったダンスホールは、開戦近い
昭和十五年、命令により閉鎖されました。