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本仁 戻その清冽なるエロチシズム

における一考察

 
一瞬で見るものの心を捉えて離さない秀麗な画、その希有とも言うべき才能
に甘んじることなく、物語を紡ぎ独自の世界を構築している本仁戻。
 その計算され尽くした一本一本の線と、人間の内面を苦しいぐらいに掘り下げていくストーリーはこび、心の内部の隠された部分を描ききろうとする真摯な作品は、読み手を引き込み、自己の欲望を暴かれ、目の前に突きつけらえるような気さえし、驚愕させられる。
 数多のやおい作家と一括りにされるべき存在では無いと、痛切に感じずにはいられない強烈な個性を持ち、その作品は官能的とも言えるエロチシズムを醸し出している。
 やおいマンガにおける性表現がいかに貧しいものであるか、やおい=ポルノと言っても過言ではあるまい。
 SEXシーンは、お互いの性器を擦り合うだけのものとなり果て、そこ「物
語」は成り立たず、性における表現能力が問われなくなった様に思われる。
 憧れも、嫉妬も、苦悩も、ときめきさえも、遙か彼方、忘却の淵に沈んで過去のものとなり、出会いや別れも単なるシュミレーションとして大量に用意され「消費」されるだけのものと、成り下がってしまっている。
 行為そのものを、よりリアルに描く為だけに、多くのページを費やし、作者は自分の言葉を持たぬままENDマークをつけ、あたかも「素晴らしい自分だけの物語」を作り上げた気になってしまっている。
 これら一連のやおい作品にいつも感じることは、情緒も感慨もない、性的な興奮も刺激もなく、まして心の琴線に触れ大切のとっておきたくなる様なシーン、セリフは皆無で、殺伐としたなんとも後味の悪い思いだけがのこると言うことだ。
 言うまでもなくエロチシズムというものは、あらゆる「差異」から発生すると考えられる。
 言い換えれば、そこには自己対他者との絶対的距離感の中に「後ろ暗さ」や「恥じらい」などの「負の部分」を認知することにより発生する「差異(ちがい)」この「ちがい」が内包しうるあらゆるイメージによって相互に喚起され呼び寄せたり、また暗示したり、さらには表現する事により「性」というものがポルノではなく、確固たる重要性をもち、エロチシズムとして成り立っていくのである。
 このエロチシズムが皆無と言っていい、昨今のやおいマンガの中で、唯一本仁戻の作品は、ポルノ的に性交の愉悦場面を描こうと情緒や、雰囲気を添えているのではなく、性描写それ自体が、人物や、物語を描くうえで必要不可欠であり、重要な意味を持ち、その必然性の「性」という思想を描く場面が、独りでに愉悦の場面になっているのだ。
 雰囲気や情緒をこれでもか、これでもかと言うように描写して、場面にSEXの愉悦を描写的に作り上げているのではない。
 言い換えれば、ポルノ的な作品を描こうとしているのではないのにも関わらず、官能的なものになり、性的な興奮を与えることになっていると言えるのである。
「本仁 戻」この類い希な感性をもつ一人の作家の出現が停滞するやおいマンガにおける一条の光明となり続けることを、期待してやまない。

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