超簡単「狂言講座」

どこまであてになるかは謎ですが・・・・おつき合い下されば嬉しいです(笑)。




*狂言ってどんなもの?*


狂言って、ちょっと聞くと堅苦しい感じがしますが、実は全然堅苦しくもなく、難しくもく それどころか、専門的な知識なんかなくても、触れてみるとめちゃ楽しいナイスな古典芸術なのです。

狂言は、言葉と仕草からなる日本の演劇の原点と云われているものなんですが、 「古典」って聞くと、もうそれだけで、難しそうって敬遠しがちですよね?
・・・事実、学校の授業で習った「古典」は言葉が難しくって、古語辞典なんてーのを片手に 読まなけりゃ判らなかったですものね(笑)。

でも、驚くなかれ狂言は違うのです。
もちろん使われる言葉は、昔の言葉。
口語は口語なんですが、多少わかりにくい言い回しはあったとしても、聞いていて意味が分からないと ゆーことはないのです。

当然、古語辞典も必要ないし、現代語訳もいらない・・狂言ってホント珍しい「古典」なのですよ(笑)。

さて、この狂言言葉ですが、これは室町時代の日常語なのです。
この言葉のアクセントの正確さが、言葉のもつ本来の正し意味と想像を生み、言葉の永遠的魅力を知らしめ、また音楽的美しさをも表していると思うのです。
流行語は数多くあれど、狂言って日本語の普遍的美しさを見直す上でも最適なものだと云えるのではないでしょうか?(いや〜ぁ、日本語って美しいですねぇ〜。うっとり(笑))

しかし・・・・「古典」ってゆーと「格調高くって肩こりそー」って思いがちですよね?
でもねっ・・(笑)狂言に限っては、そんなことは全くないのです。
初めてご覧になる方も、見てておかしくって大笑いすること請け合いです。
何故って?それは、登場してくる人物が、ほとんど庶民だし・・いたずら好きの召使いや、口うるさい女房、 それから威張っているくせにどっか抜けてる主人たちなんですもの・・・ねっ?
と言うことで、格調高いどころか(笑)娯楽の極み、日本最古のお笑い演芸なのです。

また、他の古典芸能とちょっと違うところは、
面などを付けずに素顔(これは直面(ひためん)って云います。)で演じられているところなのです。
狂言の良さは素顔で演じれるからだとも云えるかも知れません。

何故なら面を付けない事によって、その狂言師のもつ現代的感性をそのまま表現する事が出来、 実に豊かな表現と、表情が言葉を超越し、見ている私たちに理解されるのだと思うからなのです。
(例外的には仮面をつける神仏、動物がありますがこれらも狂言面に喜怒哀楽の表情が備えられているところが能面とは少し赴きが違うところです。)

現在狂言には「和泉流」と「大蔵流」という二つの流派があります。
狂言には、台本がなく師から弟子へ口伝えで伝えられて来たため時代・流派・狂言役者によって、セリフ・演出など多少の違いが見られます。

因みに私の御贔屓筋は「和泉流・二十世宗家 和泉元彌氏」であります。


*和泉流って?*


和泉流は、後花園天皇の代に発し、京都山科を中心にして流派を保ち七代目宗家から終わり徳川藩祖に召し抱えられ、和泉守に任ぜられ、当時百石の扶侍を与えられ大阪夏の陣にも参加したと伝えられています。
尾張に居を移す以前、京都に老いては長らく近衛侯(近衛府というものがあり、これは六衛府の一つで、左と右があり、禁中の警固・行幸の警備に当たったが、平安中期頃より儀仗兵化し、朝儀において舞楽を奏することを主な任とした。)の庇護を受け、和泉流の定め扇も「近衛引」と称するものがこの頃の姿を伝えているそうです。

今日、二十代を数え、五百六十年の伝統を誇ります。



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